【初心者向け】強化学習PPOアルゴリズム入門:安定した学習を実現する最先端手法の徹底解説
はじめに:強化学習とPPOへの招待
近年、AI技術は目覚ましい発展を遂げており、特に「強化学習」という分野は、ゲームAI、ロボット制御、自動運転など、様々な応用分野で驚くべき成果を上げています。AlphaGoが囲碁の世界チャンピオンを破ったり、ロボットが複雑なタスクをこなせるようになったりといったニュースを目にしたことがあるかもしれません。これらは強化学習技術の進歩によって可能になったことの一例です。
強化学習は、人間が何かを学ぶプロセスに似ています。試行錯誤を通じて、良い行動には報酬を与えられ、悪い行動からは罰(低い報酬)を受けることで、最終的に最も高い報酬を得られるような最適な行動戦略(方策)を身につけていきます。
この強化学習の世界には、様々なアルゴリズムが存在します。Q学習、SARSA、DQN、A2C、TRPOなど、それぞれに特徴と得意な分野があります。そして今回、私たちが焦点を当てるのは、PPO (Proximal Policy Optimization) と呼ばれるアルゴリズムです。PPOは、その安定した学習性能と比較的容易な実装から、現在、強化学習の分野で最も広く利用されているアルゴリズムの一つです。OpenAIのような最先端の研究機関でも、多くのタスクでPPOが採用されています。
本記事は、強化学習をこれから学び始める方や、方策勾配法やActor-Criticアルゴリズムの基礎は知っているけれど、PPOがどのようにして学習を安定させているのか、その核心を知りたい方を対象としています。約5000語というボリュームで、PPOの背後にある基本的な考え方から、具体的なアルゴリズムの中身、そして実装やハイパーパラメータに関する注意点まで、詳細かつ分かりやすく解説します。
さあ、PPOという強力なツールを理解し、強化学習の世界をさらに深く探求するための一歩を踏み出しましょう。
強化学習の基本要素:エージェントと環境の相互作用
PPOを理解するためには、まず強化学習の基本的な枠組みを押さえておく必要があります。強化学習システムは、主に「エージェント」と「環境」という二つの要素から成り立ちます。
- エージェント (Agent): 環境の中で行動を決定し、学習を行う主体です。人間で言えば、何かを学んでいる本人です。
- 環境 (Environment): エージェントが行動する世界です。エージェントの行動を受け取り、その結果として新しい状態と報酬をエージェントに返します。
このエージェントと環境は、時間ステップ t
ごとに以下のようなサイクルで相互作用します。
- 状態 (State:
s_t
): ある時点t
における環境の状況です。例えば、ゲームであれば画面の情報やキャラクターの位置、ロボットであればセンサー情報などが状態となります。エージェントはこの状態を観測します。 - 行動 (Action:
a_t
): エージェントが状態s_t
において選択する振る舞いです。ゲームであれば移動や攻撃、ロボットであればモーターの制御などが行動となります。 - 報酬 (Reward:
r_{t+1}
): エージェントが行動a_t
を取った結果、環境から与えられる評価値です。良い行動に対しては正の大きな報酬が、悪い行動に対しては負の報酬(罰)が与えられます。エージェントの目的は、将来にわたって獲得する報酬の合計(累積報酬)を最大化することです。 - 次の状態 (Next State:
s_{t+1}
): 行動a_t
を取った結果、環境が遷移した新しい状態です。
このサイクルは、エージェントが最終的な目標を達成するか(例:ゲームクリア)、あるいは特定の終了条件を満たすまで繰り返されます。この一連の相互作用の系列を「エピソード (Episode)」と呼びます。
エージェントの内部には、どのように行動を選択するかを決定する「方策 (Policy: π
)」があります。方策は、ある状態 s
が与えられたときに、どのような行動 a
を取るべきか、あるいはどの行動をどのくらいの確率で取るべきかを示すものです。PPOを含む多くの強化学習アルゴリズムでは、この方策をニューラルネットワーク(方策ネットワーク)として表現し、学習によって最適な方策を見つけ出します。
また、強化学習では「価値関数 (Value Function)」という概念も重要です。価値関数は、ある状態やある状態である行動をとったときに、将来どれだけの累積報酬が得られるかを予測するものです。
* 状態価値関数 (State-Value Function: V(s)
): ある状態 s
から開始して、ある方策 π
に従って行動を続けた場合に、将来得られる割引累積報酬の期待値です。V_π(s) = E_π [G_t | S_t = s]
、ここで G_t
は時刻 t
以降の割引累積報酬です。
* 行動価値関数 (Action-Value Function: Q(s, a)
): ある状態 s
で行動 a
をとり、その後方策 π
に従って行動を続けた場合に、将来得られる割引累積報酬の期待値です。Q_π(s, a) = E_π [G_t | S_t = s, A_t = a]
。
これらの基本要素の関係性は、「マルコフ決定過程 (Markov Decision Process: MDP)」という数学的なフレームワークによって記述されます。強化学習の多くは、このMDPを解く問題として定式化されます。MDPの核となる「マルコフ性」とは、「次の状態は現在の状態と行動のみに依存し、過去の履歴には依存しない」という性質です。
方策勾配法:方策を直接最適化するアプローチ
さて、強化学習におけるエージェントの目的は、累積報酬を最大化する最適な方策 π
を見つけることです。この「最適な方策を見つける」というタスクをどのように解くかによって、様々なアルゴリズムが生まれます。
PPOは「方策勾配法 (Policy Gradient Methods)」というカテゴリに属するアルゴリズムです。方策勾配法は、文字通り「方策そのもの」をパラメータ化(通常はニューラルネットワークの重み)し、そのパラメータを勾配上昇法によって直接更新することで、累積報酬の期待値を最大化しようとします。
方策を直接学習することのメリットは何でしょうか?
* 連続行動空間への対応: Q学習などの価値ベースの手法は、行動選択が基本的に最大価値を持つ行動を選ぶというgreedyな方法を取ります。これは離散的な行動空間では容易ですが、ロボットの関節角度のような連続的な行動空間では、すべての行動に対するQ値を計算・比較することが難しくなります。方策勾配法は、連続的な行動を出力する方策ネットワークを学習できるため、連続行動空間に自然に対応できます。
* 確率的な方策の学習: 決定的な方策(常に同じ行動を取る)だけでなく、確率的な方策(同じ状態でも確率的に異なる行動を取る)を学習できます。確率的な方策は、特に探索が必要なタスクにおいて重要です。
方策勾配法の基本的な考え方は、以下の目的関数 J(θ)
(方策のパラメータ θ
に関する期待累積報酬)を最大化することです。
J(θ) = E_{s_t, a_t ~ π_θ} [累積報酬]
この目的関数 J(θ)
をパラメータ θ
について微分し、勾配 ∇_θ J(θ)
を計算できれば、その勾配の方向に θ
を更新することで、期待累積報酬を増加させることができます。
方策勾配定理 (Policy Gradient Theorem) は、この勾配を効率的に計算する方法を提供します。離散的な行動空間の場合の簡単なバージョンは以下のようになります(将来の報酬の割引率 γ
を考慮し、エピソードの開始状態からの期待値とします)。
∇_θ J(θ) ≈ (1/N) Σ_{i=1}^N Σ_{t=0}^{T_i-1} ∇_θ log π_θ(a_{i,t} | s_{i,t}) * G_{i,t}
ここで、N
はエピソード数、T_i
はエピソード i
の長さ、s_{i,t}
、a_{i,t}
はエピソード i
の時刻 t
における状態と行動、G_{i,t}
はエピソード i
の時刻 t
から得られる割引累積報酬です。∇_θ log π_θ(a | s)
は、方策 π_θ
が状態 s
で行動 a
を選択する確率をどれだけ増やせば目的関数が増えるかを示す方向のようなものです。
この勾配計算に基づいた最も基本的なアルゴリズムが REINFORCE (Monte Carlo Policy Gradient) です。REINFORCEは、1つのエピソードが終了した後、そのエピソード内で観測された各状態-行動ペア (s_t, a_t)
に対して、それ以降に得られた実際の累積報酬 G_t
を使って方策を更新します。
REINFORCEの課題:高い分散
REINFORCEは方策勾配法の基本的な考え方を理解するのに役立ちますが、実用的には大きな課題があります。それは、勾配の推定値の「分散が高い」ということです。分散が高いということは、エピソードごとに計算される勾配の方向が大きくばらつくということであり、学習が不安定になったり、収束に時間がかかったりします。
この分散を低減するための一般的なテクニックとして、「基線 (Baseline)」の導入があります。基線 b(s_t)
は状態 s_t
のみに依存する任意の関数です。方策勾配の式は、G_{i,t}
の代わりに G_{i,t} - b(s_{i,t})
を使っても、その期待値は変化しないことが示されています。
∇_θ J(θ) ≈ (1/N) Σ_{i=1}^N Σ_{t=0}^{T_i-1} ∇_θ log π_θ(a_{i,t} | s_{i,t}) * (G_{i,t} - b(s_{i,t}))
ここで最も効果的な基線としてよく使われるのが、状態価値関数 V_π(s_t)
の推定値です。つまり、b(s_t) ≈ V_π(s_t)
とします。なぜ状態価値関数が良い基線になるかというと、G_t - V_π(s_t)
という項が「アドバンテージ (Advantage: A(s_t, a_t)
)」と呼ばれるものになるからです。
A_π(s_t, a_t) = Q_π(s_t, a_t) - V_π(s_t)
これは、ある状態 s_t
で行動 a_t
をとったときに得られる(期待される)累積報酬 Q_π(s_t, a_t)
が、その状態 s_t
で方策 π
に従ってランダムに行動を選んだ場合に得られる(期待される)累積報酬 V_π(s_t)
と比較して、どれだけ良かったか(あるいは悪かったか)を示す指標です。
アドバンテージ A(s_t, a_t)
を使った方策勾配の直感的な意味は以下のようになります。
* もし A(s_t, a_t) > 0
なら(行動 a_t
は状態 s_t
において平均よりも良い行動だった)、その行動 a_t
をとる確率 π_θ(a_t | s_t)
を増やす方向に方策パラメータ θ
を更新します。
* もし A(s_t, a_t) < 0
なら(行動 a_t
は状態 s_t
において平均よりも悪い行動だった)、その行動 a_t
をとる確率 π_θ(a_t | s_t)
を減らす方向に方策パラメータ θ
を更新します。
このように、アドバンテージを使うことで、単に報酬が高かった行動を全て強化するのではなく、「期待されるよりも良かった行動」を強化し、「期待されるよりも悪かった行動」を弱化するという、より洗練された学習が可能になり、勾配推定の分散が低減されます。
アクタークリティック法:方策と価値関数の協調学習
方策勾配法に基線(特に状態価値関数)を導入するアイデアをさらに発展させたのが、アクタークリティック法 (Actor-Critic Methods) です。アクタークリティック法では、以下の二つのネットワークを同時に学習させます。
- アクター (Actor): 方策
π_θ
を表現するネットワークです。状態を入力として受け取り、行動(あるいは行動の確率分布)を出力します。方策パラメータθ
を更新する役割を担います。 - クリティック (Critic): 価値関数(状態価値関数
V_φ
または行動価値関数Q_φ
)を表現するネットワークです。状態(または状態と行動のペア)を入力として受け取り、その価値を出力します。価値関数パラメータφ
を更新する役割を担います。
アクターとクリティックは以下のように連携して学習を進めます。
- データ収集: アクターが現在の状態
s_t
に基づいて行動a_t
を選択し、環境と相互作用します。その結果、報酬r_{t+1}
と次の状態s_{t+1}
が得られます。この(s_t, a_t, r_{t+1}, s_{t+1})
の遷移データを収集します。 - クリティックの更新: 収集したデータを使って、クリティックネットワーク(価値関数)を更新します。クリティックの学習目標は、実際の経験から得られる報酬と、自身の予測する価値の差(TD誤差など)を小さくすることです。例えば、
r_{t+1} + γV_φ(s_{t+1})
は、状態s_t
で行動a_t
をとったときに得られるであろうTDターゲットと呼ばれるものです。クリティックは、自身の予測V_φ(s_t)
がこのTDターゲットに近づくように学習します。これは教師あり学習のように、予測値とターゲット値の差の二乗誤差を最小化することで行われます。 -
アクターの更新: 収集したデータと、更新されたクリティックが提供する価値情報を使って、アクターネットワーク(方策)を更新します。アクターは、クリティックが計算したアドバンテージ
A(s_t, a_t)
に基づいて方策勾配を計算し、その勾配方向に従って方策パラメータθ
を更新します。アドバンテージは様々な方法で計算できますが、アクタークリティック法ではTD誤差δ_t = r_{t+1} + γV_φ(s_{t+1}) - V_φ(s_t)
をアドバンテージの推定値として利用することが多いです(これは1ステップTDアドバンテージと呼ばれます)。したがって、アクターの目的関数L_{actor}(θ)
の勾配は以下のようになります。∇_θ L_{actor}(θ) ≈ E [∇_θ log π_θ(a_t | s_t) * δ_t]
アクタークリティック法は、REINFORCEのようにエピソードの終わりまで待つ必要がなく、1ステップごとに学習を進めることができるため、オンライン学習に適しており、より効率的な学習が期待できます。また、クリティックが提供する価値推定値が基線として機能するため、REINFORCEよりも勾配の分散が低減されます。
アクタークリティック法の課題:学習の安定性
アクタークリティック法はREINFORCEよりも優れていますが、それでも学習の安定性には課題が残ります。特に、方策ネットワークの更新ステップサイズをどのように決定するかは難しい問題です。ステップサイズが大きすぎると、方策が急激に変化しすぎてしまい、学習が不安定になったり、パフォーマンスが崩壊したりする可能性があります。一方、ステップサイズが小さすぎると、学習に時間がかかりすぎてしまいます。
理想的には、学習の各ステップで方策を少しずつ、しかし効果的に改善していきたいのですが、どれくらいの「少しずつ」が適切なのかを、単純な勾配上昇法だけでは制御しにくいのです。この課題に対処するために生まれたのが、PPOの祖先である TRPO (Trust Region Policy Optimization) です。
TRPOは、「方策の更新量を制約つき最適化問題として解く」というアプローチをとることで、方策の急激な変化を防ぎ、学習の安定性を大幅に向上させました。具体的には、新しい方策 π_new
は古い方策 π_old
から大きく離れすぎないように、KLダイバージェンスという指標を使って方策間の距離に制約を設けます。しかし、TRPOの制約つき最適化問題を解くには共役勾配法など、やや複雑で計算コストの高い処理が必要でした。
そこで登場したのが、PPOです。
PPO (Proximal Policy Optimization) の誕生背景と目的
TRPOは確かに学習の安定性を高めることに成功しましたが、そのアルゴリズムは比較的複雑で、実装や計算コストの面で課題がありました。よりシンプルで、TRPOと同等あるいはそれ以上の性能を発揮するアルゴリズムは開発できないか? という問いに応える形で、PPOは提案されました。
PPOの目的は、TRPOが達成した「方策の更新量を適切に制御することによる学習の安定化」を、より計算効率が良く、実装が容易な方法で実現することです。TRPOが制約つき最適化問題として解いていたものを、PPOは目的関数に「クリッピング」という工夫を加えることで、制約なし最適化問題として解けるようにしました。
PPOは、アクタークリティックの枠組みを引き継ぎつつ、方策の更新方法に革新的な変更を加えました。その核心は、次に説明する「クリップされた目的関数 (Clipped Objective Function)」にあります。
PPOアルゴリズムの詳細:クリッピングの魔法
PPOの中心的なアイデアは、方策の更新ステップにおいて、新しい方策 π_θ_new(a|s)
が古い方策 π_θ_old(a|s)
から極端に離れないようにすることです。これを実現するために、PPOは以下のような特殊な目的関数を最適化します。
PPOの目的関数 L_PPO(θ)
は、主に以下の三つの項の合計として定義されます。
L_PPO(θ) = L^{CLIP}(θ) - c_1 * L^{VF}(θ) + c_2 * S[π_θ](s)
各項を見ていきましょう。
-
クリップされた目的関数項 (
L^{CLIP}(θ)
): これがPPOの最も特徴的な部分です。方策の更新を行い、かつその更新量が大きくなりすぎないように制御します。具体的な定義は以下の通りです。L^{CLIP}(θ) = E_{s, a ~ π_θ_old} [ min( r_t(θ) * A_t, clip(r_t(θ), 1 - ε, 1 + ε) * A_t ) ]
r_t(θ)
: 確率比率 (Probability Ratio) と呼ばれるもので、現在の(新しい)方策π_θ
と、データを収集した際の方策(古い方策)π_θ_old
の比率です。
r_t(θ) = π_θ(a_t | s_t) / π_θ_old(a_t | s_t)
この比率が1に近いほど、新しい方策は古い方策と似ています。比率が1より大きいほど、新しい方策は古い方策よりも行動a_t
を選択する確率が高くなっています。比率が1より小さいほど、確率は低くなっています。A_t
: 時刻t
における アドバンテージ (Advantage) です。これは、状態s_t
で行動a_t
をとったことが、期待されるよりもどれだけ良かったか(または悪かったか)を示す値です。アクタークリティック法と同様に、これはクリティックネットワークが推定する価値関数を用いて計算されます。後述するGAE (Generalized Advantage Estimation) がよく使われます。clip(r_t(θ), 1 - ε, 1 + ε)
: これが クリッピング関数 です。確率比率r_t(θ)
の値を、区間[1 - ε, 1 + ε]
の間に「クリップ(切り詰める)」します。ε
はクリッピングの閾値を決定するハイパーパラメータで、通常0.1や0.2などが使われます。例えばε = 0.2
なら、確率比率が0.8未満または1.2を超える場合は、それぞれ0.8または1.2に強制的に置き換えられます。min( r_t(θ) * A_t, clip(r_t(θ), 1 - ε, 1 + ε) * A_t )
: これがクリップ項の肝です。アドバンテージA_t
の符号によって、このmin
関数がどのように働くかが変わります。- Case 1:
A_t > 0
(行動a_t
は期待より良かった)
方策を更新する際は、この「良かった行動」を選択する確率を増やしたいと考えます。つまり、確率比率r_t(θ)
を大きくしたい。目的関数はr_t(θ) * A_t
ですから、r_t(θ)
が大きくなるほど目的関数は増加します。しかし、min
関数の存在により、r_t(θ)
が1 + ε
を超えても、目的関数は(1 + ε) * A_t
から増加しなくなります。これは、「良かった行動であっても、古い方策から比べて確率を1 + ε
倍より大きくは増やせない」という制約を課していることになります。これにより、方策の急激な変化を防ぎます。 - Case 2:
A_t < 0
(行動a_t
は期待より悪かった)
方策を更新する際は、この「悪かった行動」を選択する確率を減らしたいと考えます。つまり、確率比率r_t(θ)
を小さくしたい。目的関数はr_t(θ) * A_t
(A_t
が負なので、これを大きくするためにはr_t(θ)
を小さくする必要があります)ですが、min
関数の存在により、r_t(θ)
が1 - ε
より小さくなっても、目的関数は(1 - ε) * A_t
(A_t
が負なので、1 - ε
が小さいほどこの値は大きくなる。つまりr_t(θ)
を1 - ε
まで減らすことで最大化される)から増加しなくなります。これは、「悪かった行動であっても、古い方策から比べて確率を1 - ε
倍より小さくは減らせない」という制約を課していることになります。これにより、方策の急激な変化を防ぎます。
- Case 1:
このように、クリップされた目的関数項
L^{CLIP}(θ)
は、アドバンテージの符号に応じて、新しい方策が古い方策から大きく乖離することを制限します。特に、良い行動の確率を急激に増やしすぎたり、悪い行動の確率を急激に減らしすぎたりすることを防ぐことで、学習の安定性を高めているのです。これは、TRPOがKLダイバージェンスによる制約を用いていたことと、目的は同じです。E_{s, a ~ π_θ_old}
という期待値は、実際に古い方策π_θ_old
を用いて環境から収集したデータのサンプル平均で近似されます。PPOがTRPOより計算効率が良いのは、この目的関数が通常の勾配降下法(あるいは勾配上昇法)で最適化できる形になっているからです。 -
価値関数誤差項 (
L^{VF}(θ)
): これはクリティックネットワーク(価値関数)を学習するための項です。アクターとクリティックがパラメータを共有している場合、この項もアクターの目的関数に含めて一緒に最適化します。パラメータを共有していない場合でも、通常はアクターとクリティックを同時に学習させるため、この誤差項が使われます。L^{VF}(θ) = (V_θ(s_t) - V^{target}_t)^2
(二乗誤差)V_θ(s_t)
はクリティックネットワークによる状態s_t
の価値の予測値、V^{target}_t
は経験データから計算される価値のターゲット値です。このターゲット値には、収集した累積報酬G_t
を使う場合や、TD(λ)学習のようなより洗練された手法(GAEでアドバンテージを計算する際に使われるターゲット値と一致する場合が多い)を使う場合があります。この項を最小化するように学習を行います。c_1
は価値関数誤差項の重要度を調整するハイパーパラメータです。 -
エントロピー項 (
S[π_θ](s)
): これは方策π_θ
のエントロピーを最大化しようとする項です。S[π_θ](s) = E_s [エントロピー(π_θ(.|s))]
エントロピーは、方策のランダム性の度合いを示す指標です。エントロピーが高い方策は、特定の行動に偏らず、多様な行動をとりやすい傾向があります。この項を目的関数に加えることで、エージェントの探索(Exploration)を促進し、局所最適な方策に陥るリスクを減らす効果があります。特に学習の初期段階で重要です。
c_2
はエントロピー項の重要度を調整するハイパーパラメータです。
PPOの目的関数まとめ:
PPOは、上記の三つの項の合計を最大化するように、方策と(共有されている場合は)価値関数のパラメータ θ
を更新します。
最大化: L^{CLIP}(θ) - c_1 * L^{VF}(θ) + c_2 * S[π_θ](s)
つまり、PPOは以下のバランスを取りながら学習を進めます。
* L^{CLIP}(θ)
を通じて、アドバンテージが大きい行動の確率を増やし、小さい行動の確率を減らすことで方策を改善しようとしますが、その変化量をクリッピングによって抑制します。
* - c_1 * L^{VF}(θ)
を通じて、価値関数が環境から得られる報酬をより正確に予測できるように学習します。
* c_2 * S[π_θ](s)
を通じて、方策が多様な行動を取り、探索を促進するように促します。
PPOアルゴリズムの具体的な手順
PPOアルゴリズムの学習は、以下のステップを繰り返すことによって行われます。
- データ収集: 現在の方策
π_θ_old
(ここでは古い方策のパラメータをθ_old
と表記します)を用いて、環境と一定期間(例: Tステップ、または複数エピソード)相互作用し、状態s_t
、行動a_t
、報酬r_{t+1}
、次の状態s_{t+1}
の系列データを収集します。この期間に収集されたデータは、次の学習ステップで複数回使用されます。 - アドバンテージの計算: 収集したデータと、現在のクリティックネットワーク(価値関数
V_φ_old
、通常はアクターとパラメータを共有しているのでV_θ_old
)を用いて、各タイムステップにおけるアドバンテージA_t
を計算します。- 最もシンプルなアドバンテージの推定方法は、1ステップTD誤差
δ_t = r_{t+1} + γV_φ(s_{t+1}) - V_φ(s_t)
を使う方法です。 - PPOでは、より一般的に GAE (Generalized Advantage Estimation) という手法を用いてアドバンテージを計算することが推奨されています。GAEは、1ステップTD誤差と、モンテカルロ推定(エピソードの終わりまでの実際の累積報酬を使う)のバランスを取りながらアドバンテージを推定する手法で、TD(λ)学習に基づいています。GAEを用いることで、アドバンテージ推定の分散とバイアスのトレードオフを調整でき、学習の安定性・効率を高めることができます。GAEの計算には、割引率
γ
に加えて、もう一つのパラメータλ
(通常0から1の間) が必要です。
- 最もシンプルなアドバンテージの推定方法は、1ステップTD誤差
- ネットワークの更新: 収集したデータ(状態、行動、計算されたアドバンテージ、価値ターゲットなど)を使って、アクターおよびクリティックネットワークのパラメータ
θ
を更新します。PPOの重要な点の一つは、収集したデータを複数回(E エポック)再利用して学習を行うことです。これは「オフポリシー的」な側面を持ちますが、方策の更新量をクリッピングで制限しているため、オフポリシー学習で問題となりがちな「古いデータを使って学習することで生じる学習の不安定性」を抑えることができます。- データをミニバッチに分割し、各ミニバッチに対して以下の手順を繰り返します。
- 目的関数の計算: 現在のパラメータ
θ
を持つネットワークから、ミニバッチ内の各サンプル(s_t, a_t)
に対する確率比率r_t(θ) = π_θ(a_t | s_t) / π_θ_old(a_t | s_t)
、価値予測V_θ(s_t)
を計算します。収集時に計算しておいたアドバンテージA_t
や価値ターゲットV^{target}_t
を利用します。 - PPO目的関数
L_PPO(θ)
の計算: 上記で定義したL_PPO(θ)
を計算します。 - 勾配計算とパラメータ更新: 目的関数
L_PPO(θ)
を最大化するために、勾配上昇法(Adamなどの最適化手法がよく使われます)を用いてパラメータθ
を更新します。
- 古い方策の更新: ステップ3でのパラメータ更新が完了したら、現在のパラメータ
θ
を次のデータ収集ステップで使用する「古い方策」のパラメータθ_old
として設定します。
このデータ収集→アドバンテージ計算→複数回更新のサイクルを、学習が収束するまで、あるいは十分な性能が得られるまで繰り返します。
ネットワーク構造とハイパーパラメータ
PPOを実装する際のネットワーク構造やハイパーパラメータについて触れておきましょう。
ネットワーク構造:
アクターネットワークとクリティックネットワークは、通常ニューラルネットワークで実装されます。
* 分離型: アクターとクリティックで完全に異なるネットワーク構造やパラメータを持つ。
* 共有型: アクターとクリティックで一部の層(例えば、状態を入力として受け取る初期の全結合層や畳み込み層)を共有し、その後の層(方策を出力する層と価値を出力する層)だけを分ける。パラメータを共有すると、特徴抽出部分の学習が効率化される可能性がありますが、どちらが良いかはタスクによります。多くの実装では、パラメータ共有型が採用されています。
入力層は状態を受け取り、中間層(全結合層や、画像入力なら畳み込み層など)を経て、出力層はアクターは行動の確率分布(離散行動空間)または行動の値(連続行動空間)、クリティックは状態価値 V(s)
を出力します。
ハイパーパラメータ:
PPOには比較的多くのハイパーパラメータがあり、これらを適切に設定することが性能を引き出す上で重要です。主なハイパーパラメータは以下の通りです。
- クリッピング閾値 (ε): PPOの目的関数におけるクリッピングの幅を決定します。通常0.1から0.3の間で設定されることが多いです。εを小さくすると方策の変化がより穏やかになりますが、学習速度が遅くなる可能性があります。εを大きくすると方策の変化が大きくなりやすくなりますが、学習が不安定になるリスクが高まります。
- 価値関数誤差項の係数 (c_1): 目的関数における価値関数誤差項の重みです。クリティックの学習をどれだけ重視するかを調整します。
- エントロピー項の係数 (c_2): 目的関数におけるエントロピー項の重みです。探索の度合いを調整します。初期段階では大きめに設定し、学習が進むにつれて小さくしていくといったスケジューリングを行うこともあります。
- 学習率 (Learning Rate): アクター/クリティックネットワークのパラメータ更新のステップサイズです。Adamなどの最適化手法を使います。適切に調整しないと、学習が収束しないか、収束が遅くなります。
- バッチサイズ (Batch Size): ネットワーク更新時に使用するミニバッチのサイズです。
- エポック数 (Number of Epochs): 収集したデータセット全体を、ネットワーク更新のために何回繰り返して使うか(ステップ3の繰り返し回数)です。この値が大きいほど、データを効率的に使えますが、古いデータによる不安定性のリスクが増します。通常、数回から数十回に設定されます。
- データ収集期間 (Horizon / Timesteps per batch): ステップ1で環境からデータを収集する期間(タイムステップ数またはエピソード数)です。この期間が長いほど、より多くのデータを一度に処理できますが、方策が更新されるまでのラグが大きくなります。
- 割引率 (γ – Gamma): 将来の報酬をどれだけ重視するかを決めるパラメータです。0から1の間で、通常1に近い値(例: 0.99)が使われます。
- GAEパラメータ (λ – Lambda): GAEでアドバンテージを計算する際のパラメータです。0から1の間で、通常0.9から0.995の間で設定されます。λ=0の場合は1ステップTDアドバンテージ、λ=1の場合はモンテカルロ推定に近くなります。
これらのハイパーパラメータはタスクや環境によって最適な値が異なるため、しばしば試行錯誤によるチューニングが必要になります。
PPOの実装のポイント
PPOを実際にコードとして実装する際には、TensorFlowやPyTorchといった深層学習フレームワークを用いるのが一般的です。実装の大きな流れは前述のアルゴリズム手順通りですが、いくつかのポイントがあります。
- データバッファ: 環境から収集した経験
(s_t, a_t, r_{t+1}, s_{t+1})
を一時的に保存しておくためのバッファが必要です。通常、一定期間(データ収集期間)分のデータをまとめて保存し、ネットワーク更新が終わったら破棄します。 - アドバンテージと価値ターゲットの計算: 収集したデータとクリティックの予測値を用いて、アドバンテージ(GAEが一般的)と価値ターゲットを計算する関数が必要です。これらの計算は、ネットワーク更新のためのバッチ処理の前に一度行っておきます。
- PPO目的関数の実装: PPOの目的関数を、深層学習フレームワークの自動微分機能を使って計算できるようにコード化します。確率比率
r_t(θ)
の計算には、古い方策π_θ_old
の確率値が必要になるため、データ収集時にその値も一緒に保存しておきます。クリッピング関数もフレームワークの提供する関数を利用します。 - 並列化: 多くの強化学習タスクでは、エージェントが環境と相互作用してデータを収集する部分がボトルネックになりがちです。学習を効率化するために、複数の環境を並列に実行し、同時にデータを収集する「Vectorized Environment」という技術がよく用いられます。収集されたデータは一つの大きなバッチとして学習に使われます。
- ハイパーパラメータ管理: 前述の多数のハイパーパラメータを効果的に管理し、実験を行うための仕組み(設定ファイルやパラメータスイープツールなど)があると便利です。
オープンソースの強化学習ライブラリ(例: Stable Baselines3, Ray RLLibなど)を利用すると、PPOの実装済みコードが提供されているため、ゼロから全てを記述するよりも遥かに効率的に学習を進めることができます。これらのライブラリの内部実装を参考にすることも、理解を深める上で非常に役立ちます。
PPOのメリット・デメリット
PPOがなぜ広く使われているのか、その理由をメリット・デメリットとしてまとめましょう。
メリット:
- 学習の安定性: 方策の更新量をクリッピングで制限することで、TRPOのように学習の安定性を高めています。これは、特に複雑な環境や長時間学習を行う場合に大きな利点となります。
- 比較的容易な実装: TRPOの複雑な制約つき最適化問題を、目的関数の工夫によって通常の勾配法で最適化可能な形にしています。これにより、TRPOに比べて実装が容易です。
- 高いパフォーマンス: 多くのベンチマークタスクや実際の応用例において、TRPOと同等かそれ以上の高いパフォーマンスを発揮します。
- データ効率: 収集したデータを複数回再利用して学習できるため、オフポリシー的な側面から、データ効率が良い傾向があります(ただし、完全にオフポリシーな手法よりは限定的です)。
- 汎用性: 離散行動空間と連続行動空間のどちらにも適用可能です。
デメリット:
- ハイパーパラメータが多い: 学習の安定性や性能は多くのハイパーパラメータ(ε, c1, c2, GAEのλなど)に影響されやすく、タスクごとに慎重なチューニングが必要になる場合があります。
- 理論的な保証: TRPOは理論的な保証(単調な方策改善保証)を持っていますが、PPOはその近似手法であるため、TRPOほど厳密な理論的保証はない場合があります(ただし、実践的には非常にうまく機能します)。
総じて、PPOは学習の安定性と実装の容易さ、そして高いパフォーマンスのバランスが非常に優れており、それが現在の普及につながっています。
PPOの応用事例
PPOは、その安定性と性能から、様々な分野で成功を収めています。
- ゲームAI: OpenAI Five (Dota 2) や AlphaStar (StarCraft II) など、複雑な戦略ゲームで人間のトッププレイヤーに匹敵するAIの開発にPPOが重要な役割を果たしました。物理シミュレーションに基づいたゲーム(ロボットの歩行など)でも広く使われています。
- ロボティクス: ロボットアームの制御、歩行ロボットの制御など、物理的なインタラクションを含むタスクで、PPOが安定した制御方策を学習するために利用されています。
- 自動運転: シミュレーション環境での自動運転方策の学習にPPOが使われることがあります。
- シミュレーション: 様々な物理シミュレーションや環境シミュレーションにおいて、複雑な制御タスクを学習するためにPPOが利用されています。
これらの応用例からもわかるように、PPOは現実世界の複雑な問題に対しても有効なアルゴリズムであることが証明されています。
他の主要アルゴリズムとの比較(初心者向け)
最後に、初心者の方が混乱しやすい他の主要な強化学習アルゴリズムとPPOの関係性を簡単に整理しておきましょう。
- REINFORCE: 方策勾配法の最も基本的な形。エピソードの累積報酬をそのまま使って学習するため、分散が高く不安定になりがち。PPOは、REINFORCEの改良版であり、分散低減(基線、アドバンテージ、GAE)と学習安定化(クリッピング)の様々な工夫を凝らしたアルゴリズムと位置づけられます。
- A2C/A3C (Advantage Actor-Critic / Asynchronous Advantage Actor-Critic): アクタークリティック法の代表的なアルゴリズム。クリティックが計算したTD誤差などをアドバンテージとしてアクターを更新します。A3Cは複数のエージェントが並列かつ非同期に学習を進める手法。PPOはA2C/A3Cと同様にアクタークリティックの枠組みですが、データ収集と学習更新のフェーズを分離し、収集したデータで複数回更新を行うこと(オフライン更新)と、方策の更新量をクリッピングで制御することに大きな違いがあります。これにより、PPOはA2C/A3Cよりも一般的に学習が安定すると言われています。
- TRPO (Trust Region Policy Optimization): PPOの直接の先行研究。方策の更新量が古い方策からKLダイバージェンスで測って一定の範囲(信頼領域)に収まるように、制約つき最適化問題を解いて方策を更新します。PPOは、このTRPOの「方策の急激な変化を防ぐ」というアイデアを、より計算効率の良いクリッピングという手法で近似的に実現したものです。
- DQN (Deep Q-Network) およびその派生 (Double DQN, Dueling DQN, Prioritized Experience Replay): 価値ベースの強化学習アルゴリズムの代表。行動価値関数Q(s, a) をニューラルネットワークで近似します。Q学習は主に離散行動空間で使われます。PPOは方策ベースの手法であり、方策を直接学習します。連続行動空間に対応できる点がDQNとの大きな違いです。また、DQNは経験再生バッファを使ったオフポリシー学習ですが、PPOはクリッピング付きのオンポリシー(に近い)学習です。
このように、PPOは方策勾配法、アクタークリティック法、そしてTRPOといった先行研究のアイデアを取り入れ、学習の安定性と効率性を高いレベルで両立させたアルゴリズムだと言えます。
まとめ:PPOを理解したあなたへ
本記事では、強化学習のPPOアルゴリズムについて、その基本的な考え方から、方策勾配法やアクタークリティック法といった先行技術との関係、PPO独自の目的関数(クリッピング)、アルゴリズムの手順、実装のポイント、そしてメリット・デメリットまで、詳細に解説しました。
PPOの核心は、方策の更新時に「古い方策からあまり離れすぎないようにする」というアイデアを、確率比率のクリッピングというシンプルな仕組みで実現している点にあります。これにより、学習の安定性を保ちながら、比較的容易に実装でき、多くのタスクで高い性能を発揮することが可能になりました。
PPOは、現在の強化学習研究および応用において、最も重要なアルゴリズムの一つです。本記事を通じて、PPOがどのように機能するのか、その背後にある考え方は何なのかを理解できたのであれば幸いです。
理論を理解した後は、実際にコードを動かしてみるのが最も効果的な学習方法です。前述のStable Baselines3のようなライブラリを使って、簡単な環境(例えばOpenAI GymのCartPoleやLunarLanderなど)でPPOを動かし、ハイパーパラメータを変えて学習曲線の変化などを観察してみることをお勧めします。
PPOをマスターすれば、さらに複雑な環境やタスクへの挑戦が可能になります。強化学習の旅はまだ始まったばかりです。PPOを足がかりに、このエキサイティングな分野をさらに深く探求していきましょう。